金曜日はゆううつ
あいも変わらず忙しい。
1日限定の忙しさではないタイプの忙しさなので早々落ち着きはしない。
あれこれ舞い込んできてはさばき、あれこれ言われては言い返すなり納得するなりそれぞれ。
そして今日は金曜日。
明日は休みだ。だから嫌だ。
考える時間が増える。
忙しくないならほげーとしていれば2日なんで光の速さで過ぎ去る。
それもできるのだ。そう、仕事が落ち着いていたらね!
そう言えば新しいiPhoneを購入したにも関わらず電話番号の引き継ぎが終わらずしまい込んだままである。
iPhoneからしたらこれからバリバリ使われて新しいからブイブイ尊奉の眼差しを受けてiPhoneらしいキャリアフォーンになる予定だった所わたしが鈍臭いミスを連発しているお陰ですっかり置物と化していると思うと胸が締め付けられる思いだ。
だからと言って仕事の合間に現キャリアに電話し、わざわざ10分以上待たされわけのわからんアンケートを取らされストレスしか溜まらない行為をまたやるのかと思うとボタンを電話番号を押す指も止まるのである。
逃げられないための仕掛けが今後使わない理由第1位になるとは皮肉なもんだ。
そういった細かい面倒なのにやらないとならないことを片付ける絶好の日、それこそ休みの日なのだ。
ありあまる時間は大抵の時間がかかる問題を解決してくれる。
なぜなら時間があるから時間がかかる問題に取り組んでも足りなくなることはほぼないからだ。
ゆえに休みに入った今からあれもこれもとやらなければならない状態が既に億劫で、早速休みから逃避したいのだ。
そうして毎週このゆううつから逃避して今日に至る。
人はこれをめんどくさがり屋と呼ぶ。
今日もゆううつを取越しながら金曜は終わって行く。はぁ…
クイッティオナームの日
今日は忙しかった。
年末年始は繁忙期らしくその波がじわじわと膝下まで来ている感じ。
そのうち大波に変化しそうだけど私はブレずにノー残業を守り切りたいと思った。
矢先に今日残業である。
守るのが難しいから…守りたいって強く思うんじゃ無いかな…
ジムに行きたかったなぁ。
今日のランチはタイ料理屋に行った。
いつもランチを共にする同僚達がいて、普段は7.8人くらいでランチを食べに行く。
だけれど今日は和食チームとタイチームな2手に別れた。
何か普通じゃないものが食べたい気分だったのでタイチームに同行した。
そして食べたのがクイッティオナーム。
クイッティオナームとは何か、タイの屋台でよくあるフォーである。
とメニューに書いてあったんである。
酸っぱくも辛くもないサッパリしたフォーで薄味の優し目のヌードル。
まぁこれなんだけど。
パクチーが爽やかで夏の木陰の様な心地よさを思い出した。
とても美味しかった。
薄味なのでテーブルにある調味料を加えながら食べることをオススメされた。
とうがらしを乾燥させてミキサーに少しかけました!みたいなものがあったのでかけてみたらとてつもなく辛くてびっくりした。
見た目まんまの辛さだったのでビックリするのもどうかと思うがとりあえずかけてみようと言うチャレンジ精神からやっちゃったのである。
ちなみにクイッティオナームは温かいフォーだ。
完璧なるやらかしであった。
すするたび痛くてしばらく美味しさより辛さが勝った。辛いだけに。
クイッティオナーム…覚えられるだろうか…
次はトムヤムクンが良いな…と思うあたり多分覚えられない。
きっとなんか…名前ややこしかったやつ…みたいな覚え方をしてそうだ。
そんな感じの日。
ありあまる時間
休みの日に予定があって、予定の合間にすこしできた時間が好きだ。
10分くらいの「自由な時間」で、普段通り過ぎているだけのお店を見たり別ルートを行くのが好きだ。
じっくりは見れないが適当にふらつける時間があるととても自由を感じる。
若い内にできること
「若い内に色々やっておいたほうが良いよ。」
というひとがいる。
学生の頃、若いからってなんでも任せないでほしいと思っていた時期もあったが、今はこの言葉がしっくりきつつある。
若い内とは、体力と気力が人生の中でも値がMAXに近く”義務"教育も落ち着き、それなりに人との関わりや物事への理解、世の中のパターンについてわかってきた頃だ。
この頃、大体の人たちは若いだけでなんでも出来る気持ちになる。
実際には世の中のほとんどの事が出来る力を持っていると思う。
何かを成し遂げるには「時間」「体力」「学習力」が必要だと思っている。
若い人にはその3つが揃っている。
この3つは年を取るごとになくなっていく。
何かをはじめて結果を出しまくるのは若い時がチャンスだ。
私は安定志向の若い人を責めたいのではない。
安定したい、安全な所にいたいと思うのは生き物として当たり前だと思う。
安定するために努力するのは先を見越して行動しているので良いことだと思う。
その努力の中に色々しておくが入っているのではないかと、近頃腑に落ちた。
力がある内に、回復力が高い内にダメージと知見を深めて、この先に備える考えの元にできれば良いと思う。
ただ深刻なダメージは後に引きずる可能性もあるのでそれだけは気を付けたい。
自分は衰えていく生き物だと、若いと気が付きにくい。
衰えていないから体感したことの無いことだから、仕方のないことだけれど。
いつか衰えると思っておくのと今が永遠に続くと思うのは大きく違うと思うのでより毎日を大切にできると思う。
今日はここまで。
成し遂げたかったら成功体験を貯めたほうがいい
やりたいけどやれない、続かない事が多い。
その中で続いた、できた場合に共通していたのが成功体験を積むことだったのでそれについて書く。
成功体験を貯める
やりたいことができない時、やりたいことに対してアンチになっている事が多い。
絵が描きたい→時間がない。面倒くさい。他にやったほうが良いことがあるのでは?
といった考えが働く。
そういった危惧することは、自己防衛本能の延長と捉えている。
安全か危険かの道があったとして安全な方を選ぶのは、人の性能というか心のありかたとして正しいと思う。
なので、アンチになることは仕方がないことなのでマイナスイメージが思い浮かんだところで諦めることもない。
マイナスイメージから手を付けられない場合は実際に行動して、小さくても成功を積んで「これは安全であり危険ではない」ことを心に理解させた方がやりやすくなる。
となると
絵を描く→時間をかけて描くことは心がすっきりするし気持ちいい。他のアクティビティと同等の価値がある。
と、プラスのイメージがあると次回も手が出しやすくなる。
マイナスイメージを持つことは自分の時間や労力のコスパを考えた際デメリットが多いと自然に判断している時なので実際に成功してみることで敷居を下げると続けやすい。
また、自分のテンションがあがるように、気持ちのいい仕掛けをしかけておくといい。
承認欲求が欲しいなら承認を貰える環境について考えて自分の場合どういう立ち位置にいたら自然に承認を貰えるのかを考えて行動してみる。
できない理由を明確にする
なぜできないのか、なにが邪魔をしているのかを明確にして対策を練る。
時間が無いなら時間を作るにはどうすればいいのか対策をしてみる。
時間がないなら時間を作る。
時間の作り方がわからないなら時間の作り方の具体例を調べて自分に合うものを取り入れるといった具合だ。
大体の悩みというのは他の人間もつまずいて悩んでいる可能性が高いので検索すれば対策がすぐ出てくる事が多い。
やってもできないには向いていない時ときちんとやらなかったため効果がなかった場合がある
もったいないのはきちんとやらなかったため効果が無かった場合。
その場合失敗体験だけ残るのでそれがまたやる気とか気持ちを損なうのでよくない。
できなかったことで「自分はダメな人間なんだ」と思ってなにもしなくなるのもよくない。
誘惑を誘惑と認知する
一時の快楽だけで誘惑に負ける事がある。
誘惑に惑わされている時は、脳内で少しテンションが違っている。
その誘惑を正当性のある、メリットのある行為だと理論付けようとする。
人は自分の思った正しいが本当に正しいと思うために、事実を曲げて考える所がある。
これはバグなので、誘惑はバグだと思って凌ぐしかない。
あからさまに誘惑で、負けそうな時には「これは誘惑だ。脳が勝手にこれを良いことにしようとしている。」と思って誘惑を認知すると避けやすい。
無理はしない
初めは張り切ることが多い。
でも気力ややる気はそんなに長くは続かない。
だから無理だな、と思ったら休憩をするか手を抜く。
手を抜くのが習慣になるのはまずいけれどマイナスイメージを持つのとやめるのはもっとよくないと思うので引き続かせつつできることをする。
またやりたい気持ちが高まった時にきちんとやれば良い。
自分で気持ちや気分を先読みしてコントロールする
それでも人には気分や乗り気があって始める事が困難な時もある。
そこで「またか」と思ったら気持ちが先読み出来ているので、軌道修正にそこまでかからない。
その曜日や時間はこういう気持ちになりやすいとわかっていれば、その気持ちや気分を回避するための予定を建てたり何か用意しておいたり準備できる。
万能ではないがまずは続けたいと思ったらこういう対策を取る。
今日はここまで。
幸せにしたいという傲慢さ
ある人を思い出していた時に気がついた事。
過去の話をする。
当時私はある人に「私が幸せにしたい」と強く思って行動していた時があった。
友達だろうと恋人だろうと親族だろうと「こうなってほしい」と願って行動することは度々ある。
喜んで欲しくて何か用意したり言葉をかけたりする。
喜んだ姿を見て私も嬉しくなる。
これが最近少し違うのではないかと思った。
気持ちを変えるのはその人自身
よく「人の気持ちは変えられない」と言う。
それには納得している。
例えば、私がこうしたからあの人は変わった、と言うのはおかしい。
人は自分の意思でしか行動しない。
こちらが何をしてもきっかけにしかならずそうなったのはその人がそうなる事を望んだからそうなっている。
人の気持ちの切り替わりはスイッチに似ている
例えるなら自分の気持ちはスイッチを押すようなもので勝手に幸せになったり悲しくなったりできる。
ただ何かのスイッチがあることに気が付く時、他人からの影響で気が付かされる時がある。
そういう時、人は他人を変えたと錯覚する。
他人は自分でスイッチを押すのに、スイッチを押したのは自分だと思ってしまう。
これを無意識にしてしまっているのではないかと最近良く考えている。
私も気がついてスイッチを押している
カズレーザーからも影響を受けてこの側面に気がついてしまった。
思っていればずっと幸せだと。
確かに不幸に見えても幸せを感じている人はいるし幸福と不幸の定義なんて物事の捉え方の側面が多すぎて無限に答えが出てきそうで考えたくない。定義できないから各自で定義した方がいいと思っている。
そんな側面に気がついてしまったが気持ちとしてはすっきりした。
そして「他人を幸せにしたい」と言う気持ちに傲慢さを感じてしまった。
他人は勝手に幸せになる。ただきっかけの種をまく人になれればいいなと思う。
そこからの「あなたを幸せにしたのは私ですよ!」というありがとうの押し付けが発生することもある。
これは自分のためにやっている行動が多いので何かする前に一度考えて行動したいと思った。
今日はここまで。
休日にはなにもしたくない
今日はなにもしなかった。
あえてしているなら日記を書いている。
日記を書いてはいるがなにも書くことはない
さきほどまで持論や経験論を書こうとキーボードを叩いてはいるのだが何一つうまくまとまらない。
びっくりするほど頭が冴えない。言葉が出てこない。
仕方がないのでなにも書けない事を書いている。
寝てしまってもいいが先程まで20時間睡眠をしていたので特に眠たくもない。
金曜朝帰りをし、それから泥のように眠り今さっき目が覚めた。
本当に書くことがなくてびっくりしている。心がとても平和。
何もしないことはいいことか
何もしないことに罪悪感や虚無感を持っていた時期もあったが今はほとんどそんな気持ちにならない。
1日何かした所で人生が画期的に良くなる可能性は低いしそんなチャンスが出て来る可能性も低い。
ということは1日ぼけーと過ごしても何も変わらない。
大事なのは習慣化できる平日だと思っている。
では休日も平日と同じように過ごしてみては?とも思うが朝まで飲みたい日もあり夜中まで眠りたい日もあるのだ。
しかし読書は毎日したいとは思う。できていないが。
ということで今から何かしらしようとはするだろうが、特に意味もないことなのだろうなと今から思っている。
今日はここまで。