幸せにしたいという傲慢さ
ある人を思い出していた時に気がついた事。
過去の話をする。
当時私はある人に「私が幸せにしたい」と強く思って行動していた時があった。
友達だろうと恋人だろうと親族だろうと「こうなってほしい」と願って行動することは度々ある。
喜んで欲しくて何か用意したり言葉をかけたりする。
喜んだ姿を見て私も嬉しくなる。
これが最近少し違うのではないかと思った。
気持ちを変えるのはその人自身
よく「人の気持ちは変えられない」と言う。
それには納得している。
例えば、私がこうしたからあの人は変わった、と言うのはおかしい。
人は自分の意思でしか行動しない。
こちらが何をしてもきっかけにしかならずそうなったのはその人がそうなる事を望んだからそうなっている。
人の気持ちの切り替わりはスイッチに似ている
例えるなら自分の気持ちはスイッチを押すようなもので勝手に幸せになったり悲しくなったりできる。
ただ何かのスイッチがあることに気が付く時、他人からの影響で気が付かされる時がある。
そういう時、人は他人を変えたと錯覚する。
他人は自分でスイッチを押すのに、スイッチを押したのは自分だと思ってしまう。
これを無意識にしてしまっているのではないかと最近良く考えている。
私も気がついてスイッチを押している
カズレーザーからも影響を受けてこの側面に気がついてしまった。
思っていればずっと幸せだと。
確かに不幸に見えても幸せを感じている人はいるし幸福と不幸の定義なんて物事の捉え方の側面が多すぎて無限に答えが出てきそうで考えたくない。定義できないから各自で定義した方がいいと思っている。
そんな側面に気がついてしまったが気持ちとしてはすっきりした。
そして「他人を幸せにしたい」と言う気持ちに傲慢さを感じてしまった。
他人は勝手に幸せになる。ただきっかけの種をまく人になれればいいなと思う。
そこからの「あなたを幸せにしたのは私ですよ!」というありがとうの押し付けが発生することもある。
これは自分のためにやっている行動が多いので何かする前に一度考えて行動したいと思った。
今日はここまで。